創造性について
くだらないネタがたくさん続いているこのエッセイ、今回はちょっとまともに「創造性」についての話題です。というのもこの間、
という本を読んだからなのですが・・・・・・。
創造性というわけではないのですが、私はある雑誌で技術者のこんな記述を読んだ記憶があります。「日頃から、ちょっとしたアイデアをよく実験しているやつほど、実際に設計を任されたときに良い設計をする。」
また、私自身が回路設計をするときや、研究の進行について考えるときは、まず、大まかに流れ(ブロック図)を決めて、次に細かな設計や計画を立てるという「トップダウン」方式を取ります。しかし、年から年中トップダウンでやっているわけではなく、暇をみては、使い物になるかどうかわからないような回路を考えてみたり、雑誌に載っている回路の解析をやったりして「ボトムアップ」の遊びをやっています。
実験装置の回路なんかを考えるときは、仕様を決めて、ブロック図を書いた後、細かな回路は自分の頭の中にある回路や、回路集なんかの回路を参考に設計していきます。この手順は私にとって難しいものではないので、高専で回路を学んだ人間なら、まあ、実践できるんじゃないかと思っていました。しかし、そうでもないのかな?と最近思っています。
というのもF研(私のいる研究室です)に配属されたB4が、とある回路を作ろうとしていたので、普段、私が使っている回路集や、オペアンプの本やらを貸してあげて、「まあ、最初は、見よう見まねでやってみなよ」「いろんな回路と回路をつなぎあわせていったら、らしい装置ができるよ」ってなノリでほっておいたんです。結果は、全然、設計の「せ」の字すらできない。製作する気あるの?ってな感じです。
この原因はいくつかあると思うのですが、手元にプロトタイプの存在しない、新規な装置を作るということは、比較的創造的な作業であるということを、私や彼が認識してなかったのが一因ではないかと思っています。
というわけで、上記の本の内容について触れたいと思います。
この本は、ほぼ、認知科学者むけに書かれたものなのですが、素人の私にもためになることが書いてありました。この本の筆者らは、創造性を「ジェネプロアモデル」という概念で説明しようとしています。このモデルは、創造性を「生成(Generate)」と「探索(Explore)」の二つの事象の相互作用と考えたものです。
このモデルから導かれることは、我々が創造的であるためには、ある構造の解釈をする前に先にいろいろな形状を考えておくことが大切であることや、その形状を考える際に、機能やカテゴリを決めておくのはよいけれど、タイプを決めるのはよくないとしています。そして、その形状をいろいろな見方で吟味してみることが大切であるといっています。また、時に袋小路に落ち込むこともあるのでそういった時は、カテゴリ還元や、根拠のない仮説、自分自身で勝手に課した不必要な制限を無くす必要があると述べています。ここで、出てきたカテゴリ還元というのは、たとえば「椅子」とカテゴリ化するかわりに「地面より高いところにある平らな表面」と考えればよいといったものです。
まあ、なんか難しいことをいっているけど、ようは、創造的な作業をしているときは、早い段階から、回路方式やアルゴリズムなんかを決定して、手法を制限するんじゃない!ということと、創造的な作業をする前に、対象に必要となるいくつもの構成要素についてよく吟味しておけ!ということなのかな?と思いました。
ここらあたりで、わたしは、上述のB4の彼が、まったく設計できなかった理由がなんとなくわかりました。つまり、彼は、高専で回路の勉強はしたけれども、それらをどうつなぎあわせ、その動作を吟味していったら良いかの訓練をしていないから、装置の設計ができなかったのではないか?ということです。
回路の教育を受ければ、確かに、回路の解析はできるようになります。しかし、肝心な組み合わせ方などの教育が、彼や一部の高専生に不足していたのではないかと思います。もしかすると、装置の構成要素となる種々の回路(モジュール)についてもあまり知らなかったのかもしれません。というわけで、わたしが当たり前だと思っていた、いろいろな回路モジュールを知っていること、そして、ときどきやっていた、適当にデバイスをくっ付けてみて動作を予想するという遊びなどが、当たり前ではないこと。また、そんな当たり前ではないことが、新規な装置を考える上で大切であり、一般の高専卒業生は、一部の「回路マニア」でもないかぎりそんなことはやってないということなのだろうと思いました。
今まで話題にしたことに関連するかどうかはわかりませんが、「インターフェース1999年5月号, CQ出版」の特集である「ASIC時代の最新システム設計入門」でも、アルゴリズム設計、アーキテクチャマッピングを省略していきなりインプリメントに入ることの害を述べていて、これからは、初期の設計では、より抽象度をあげて行うほうが良いというようなことをいっています。たとえば、CPUに依存したアルゴリズム設計すると、そのCPUが製造中止になったら最初から設計をやり直さなければなりません。しかし、抽象度をあげてCPUに依存しない設計をしていればそんなことにはなりません。手法を制限するのは「インプリメント」の段階にしよう!というわけで、それ以前の設計に力をそそぐといった考え方です。
確かに、手法を制限すると創造性は落ちてくると思います。研究室にある器材だけで研究をしようと考えた人と、そんなことは考えずにただ、「どういった研究をしようか?」「どういった方法でやろうか?」と考えた人を比較したら、手法を制限しなかった人のほうがより「面白そうなこと」ができそうだと思いませんか?
研究室に配属されたばかりの人、あと数ヶ月で学び舎を後にする人、どうですか? 自分で勝手に、不必要に、創造性に制限をかけてはいないでしょうか?
「創造的認知」の「日本の読者へ」の最後の一文は、月並みだけれども、ちょっと胸の片隅にとどめておきたい言葉です。
...かわたのつぶやき
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